先日知人が「奥さんが押し花作りにハマっている。生きているもの(花)を切って枯らして保存するなんて自分には到底考えられない残酷なことだ」と言っていました。
その話を聞いて、ちょっと考えてみることにしました。
切り花って、残酷な行為なのか?
個人的には、切り花は残酷だと思いません。
切り花が苦手という人がいますが、その理由としては枯れて行くのを見ているのが辛いとか捨てることに罪悪感を感じるなど。それは私も感じます。花をただの燃えるゴミに捨てるのはどうにも悲しい気持ちになります。
なので捨てる時は土に還したり、比較的形を保ったまま枯れた場合は吊るしてドライフラワーにしてみたり。そのまま捨ててしまう時も、悲しいけどあります。
因みに押し花にしようとは思いませんでした。私には使い道がないからなぁ。
知人が「残酷だ」と言う理由としては、生きているもの(花)を人間の勝手な都合で殺すから。庭に植わっている木や植物を見てそうは思わないけど、花屋で売られている切り花を見るとゾワッとするのだそう。
それじゃぁ鉢植えなら良いのか?と訊いてみると、切り花よりは良いけど鉢植えも知人にとってはゾワッとするものだとのこと。囲われているから、でしょうかね。
知人の知り合いには、家業の花屋を引き継いだけれど切り花を取り扱うことに違和感を覚えて鉢植えの販売に移行している、という人も実際にいるそうです。
ヒトの勝手で切られて寿命を縮められて挙げ句ゴミとして捨てられて。全く持って残酷な行為だと認めます、私も。
でも、それを言ったら世の中の殆どは残酷でしょう?
魚は良いの?肉はどうなの?花は植物だけどその分類で言ったら野菜だって同じじゃない?人間が食べる為に人間が勝手に育てて獲って食べて、酷いと食べずに腐らせて捨てるんだよ?もうお腹いっぱいで食べられないって捨てるんだよ?
私はベジタリアンでもなければヴィーガンでもなく、特別アレルギーもないようなので魚も肉も野菜も穀物も乳製品も食べる人種だけど、ふと思ったのはピュアベジタリアンとか動物性のものを嫌う考え方の人は、それって植物は生き物ではないって思っているのかな?
身近にそういう人がいないから直接意見を聞いたことはないけれど、もしも、命を殺して食べることを嫌悪して動物性のものは食べないとしている人がいるなら、それってとても短絡的な考えではないですかね。
植物に命がないという考えの方が私からすれば正気の沙汰ではないと思うので。本当にそういう人がいるのかは知らないですけれども。
ちょっと話が逸れました。
そう、でも、そう。ヒトって身勝手で残酷でしょう。進化とか繁栄という言葉にも置き換えられたりするのかも?知れませんが。
万人が花を好きだということはまず無いだろうけれど、でも花を見て温かい気持ちになる、花は「良いものだ」と認識している人が多いから、「切り花」という商品が存在しているんですよね。雑草とは違った「花」という種類が出来て、それは「花」に選ばれて育てられて、切られて、商品として人間に買われて、愛でられている訳ですよね。
だって生命を維持する為に花は必要不可欠なものではないから。水が無いとヒトは生きられないけれど鑑賞用の花は無くてもヒトは生きていけますからね。
生きる為に必ずしも必要ではない命を止めるのは残酷で?でも野菜の命を止めてヒトの栄養にするのは何とも思わないのか?
私にはどうにも納得の行かない考え方であります。どっちもヒトの勝手で殺しているのに。
食べる為に作る命がある様に、愛でる為に作る命があっても良いと思います。それを好むか好まないか、関わるか否かは各々の選択の自由であって。残酷と思うのも自由だけれど、それを否定することは、また違うのではないかと思う訳です。
そんなこと言っていったら、地球上から人間が居なくならないといけなくなると思うよ。木を切り倒して、海を埋めて、空気を汚して、あらゆる命を潰して。人間が居ることの地球のメリットって、何も無いよね。
そして私は今日も、素敵な花に癒しを貰っています。
とても可愛い。
いつもありがとう^^
コメント
肉や魚は食べないと生きていけない。自分の命に取り込む生きる上で必要不可欠な行為。
切り花はなくても生きていける。鑑賞以上の理由がそこにないからです。鑑賞の自己満足だけのために他の命を刈り取る行為だから残酷です。ちがいますか?私は食用にする動植物は捨てません。全部食べます。
ヴィーガンでももちろんベジタリアンでもない普通の雑食動物 さん
こんばんは。コメントありがとうございます^^
他の生物に関しては解りませんが、人間には所謂 心 と呼ばれるものがあるとされていて、心は五感が何かに触れることで脳がかたちを齎すものですよね。
何が好きか嫌いか、綺麗か不快か等を感じる心は人それぞれなので、一括りにすることは出来ません。
>切り花はなくても生きていける。
全くその通りで、私もそう思っています。切り花は人間の勝手な自己満足の為の残酷な行為の形だと思います。
>鑑賞以上の理由がそこにないからです。鑑賞の自己満足だけのために他の命を刈り取る行為だから残酷です。ちがいますか?
ちがうとも言えるし、ちがわないとも言える。
私は、切り花を残酷だと思う一方で残酷でないとも感じます。何故ならそこに自分なりに意味を見出しているから。
貴方にとっての切り花は「鑑賞」としてだけの対象物。
私にとっての切り花は、鑑賞した上で感情に滋養を与えてくれる物。
花を体内に摂取しなくても人間は生きていけます。
花を五感で感じることで活力が得られ毎日を豊かに生きていける人間がいます。
「ちがう」と何かありますか?そう思わない人がいることは、問題ですか?
それを受け入れて感謝しながら生きる事を否定出来るほどの人が、居るでしょうか?もし居るとするなら、一体全体どういう理由で?
人間なんて自己満足で生きているものだと私は思っています。その自己満足を当然とするか、有難いものと思うか。
たとえば、
アクセサリーなんて着けなくても生きていけるけど、そのアクセサリーを見て大切な誰かを思い浮かべて、生きる力を湧き起こしているのかも知れない。
身に着けることで自分を勇気づけて、前を向いていこうとしているのかも知れない。
もしかしたら誰かに縛りつけられているのかも知れない。
音楽なんて不要だ、と言う人も居るし、音の琴線に触れることで感性が磨かれそれが血肉になる、と言う人も居る。
そんなの他人には知り得ない事だし、その行為すら全て自己満足です。
>私は食用にする動植物は捨てません。全部食べます。
貴方は信念を貫かれているのですね。とてもエネルギーのある人なのだと思います。
さりとてそれも、言ってしまえば自己満足です。素晴らしい行いですね!と賛同する人も居るでしょうし、詭弁だと言う人も居るでしょう。
ちょっと考えてみてください。
>肉や魚は食べないと生きていけない。自分の命に取り込む生きる上で必要不可欠な行為。
その行為自体が、感情云々以前に実際問題として不可能な人が居ます。
それが当然であると感じている。
それらを食べられる身体であること自体が幸せなのかも知れませんね。
全く同じ価値観の人間は存在しないと私は思います。だから胸の内をお互いに打ち明けて、解り合う努力をして、そうありたいと思う相手と繋がっていくのだと思います。
私は貴方の想いを否定することはしませんし、出来ません。貴方はそういう風に考えるのですね、と受け入れます。
目に見えない感情に関する話に於いては、どれが正しくどれが間違いだと断定出来る頑とした判断基準などないしわざわざそうする必要がないこともあります。
その考え方を自分が受け入れられるか受け入れられないか。ただそれだけだと思います。振り切れるかも知れないし、中途半端な不安定な位置に留まるかも知れない。
その判断は個々人の芯の置き位置に左右されるものであり且つ変動性があるもので、何かを切欠にある時突然180度違った世界が拓けるかも解りません。誰にも、自分でさえも解らない。それで良いのだと私は思います。